第1759号(2003年3月10日)の内容
<1面>
革マル派結成40周年・『共産党宣言』155周年記念
3・16政治集会に総結集せよ
わが革マル派の原点を再確認し21世紀マルクス主義運動の前進を
<4面>
たたかう労働者の03春闘方針
賃下げ・首切り攻撃をうち砕け! ――2・9怒りの総決起集会 第2基調報告
<5面>
3・16革共同政治集会に総結集せよ
<6面>
NTT労組本部の「03春闘方針」の反労働者性
Topics 迫る労働者派遣法の改悪
<2面>
全世界の闘いと連帯して
2・15イラク反戦に全国で決起
大阪/名古屋/金沢/福岡
フォーラム・九州ブロック集会に
労組員5000名が結集 (2・16福岡)
<7面>
「ジハード元年のマルクス」に感動した!
『マルクス ルネッサンス』を読みて
<8面>
寄る辺なき彷徨
熊野の「若きへーゲルへの寄港」について
<3面>
万華鏡2003――情勢の断層を読む
人間の楯=H
フワタリ手形
デス・スター(死の星)
日本版「コムスタット」
まんが 鏡よ、鏡、鏡さん!
週間日誌〈世界の動き・日本の動き〉
「解放」最新号
革マル派結成40周年・『共産党宣言』155周年記念
3・16政治集会に総結集せよ わが革マル派の原点を再確認し21世紀マルクス主義運動の前進を すべてのたたかう労働者・学生・知識人諸君! 新たな世界大戦への導火線となる危険性を孕(はら)む米英帝国主義のイラク侵略戦争開戦の前夜、戦雲は厚く重く天空を閉ざし、大地は現代世界の構造的地殻変動を予兆する不気味な地鳴りにきしんでいる。まさにこの大動乱のただなかにあって、わが日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派は結成四〇周年の節目を迎えている。 組織路線における大衆運動主義的偏向を全面開花するとともに、戦略上では反帝イズムを濃化し、左翼スターリン主義への転落を鮮明にした当時のわが同盟政治局内多数派。あまつさえこのような偏向の固着化が帝国主義とスターリン主義によって二重の疎外を強いられ苦悩する現代のプロレタリアート・勤労人民の自己解放への道を閉ざすものであるという下からの真摯な、体系的かつ組織的な批判にたいして、政治主義的で官僚主義的な抑圧と封殺をもって応えた池ブクロ官僚ども。わが日本反スターリン主義運動の基本路線からの逸脱を断じて許さず、彼らを指導部の座から引きずり下ろし、革共同の革命的再生をかちとることを誓った、当時二十歳を過ぎたばかりの若き先輩同志たちは、わが反スターリン主義運動の創始者・同志黒田寛一の指導のもとに断固たる分派闘争を展開し・勝ちぬき<革命的マルクス主義派>の結成をかちとった。時に一九六三年二月。いご四十年。わが革マル派は、労学両戦線において次つぎと新しい世代の仲間たちを獲得するとともに、燃えたぎる情熱と透徹した理性に支えられた分析力・洞察力を発揮して全世界の深部と暗部を照らしだすとともに、真実の自己解放の道を日本のみならず全世界の人民の前にくっきりとさししめし、巨大な前進をかちとってきた。その計り知れぬ物質力・爆発力に恐怖した日本帝国主義国家権力、のみならずアメリカ帝国主義国家権力の、諜報=謀略諸機関を動員し謀略的手段をも駆使した破壊攻撃。これにも屈することなく、強固な革命組織の建設を成功裡になしとげてきた。 来る三月十六日、首都東京において、わが同盟は「革マル派結成四〇周年・『共産党宣言』一五五周年記念政治集会」を開催する。わが同盟の確固たる前進を、真実のマルクス主義で武装した唯一の左翼として社会のあらゆる深部に強固なケルンをガッチリと構築したこの地平を確認し、このような闘いを可能にした貴重な教訓を打ち固め、戦乱の現代世界を根底から革命的に転覆する決意をともに打ち固めるために、すべてのたたかう労働者・学生は全国からこの集会に総結集せよ! 以下、章見出し 反スタ革命的左翼の歴史的使命はいよいよ重大である 革共同第三次分裂の決定的意義を再度つかみとろう 革マル派創成・建設の闘いの追体験的再主体化を! |
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賃下げ・首切り攻撃をうち砕け!
戦争狂ブッシュに「反戦」の炎を 「連合」中央「全労連」指導部の抑圧と裏切りに抗して春闘を闘おう みなさん、こんにちは。 戦争狂いのブッシュは、「国連査察団」がイラクの「大量破壊兵器開発の証拠」を見つけ出せないことに苛立ちをつのらせています。イラク攻撃に反対しているドイツの権力者、軍事攻撃には「慎重を期せ」というロシアや中国の権力者、そして「武力行使は時期尚早、査察期間の延長を」と要求しているフランスの権力者。彼らを尻目に、ブッシュはなにがなんでもイラク軍事攻撃の挙にうって出ようとしているのです。 二月五日、国務長官パウエルは、国連安保理事会においてイラクが「査察妨害」や「隠蔽工作」をしていたとする「盗聴テープ」や「衛星写真」を開示しました。ブッシュは、エシュロンやスパイ衛星を駆使しておこなった盗聴・盗撮や種々の偽造・デッチ上げ工作の手口をも公開≠キるほどまでに狂気を昂じさせて、各国権力者に武力行使容認決議をせまり、イラク侵略戦争へ突進しようとしています。そして日本の小泉政権が、このブッシュにつきしたがい、イージス艦や燃料補給艦をアラビア海に送り、イラク侵略戦争に参戦しようとしているのです。 まさに戦争前夜のもとで、われわれは〇三春闘をたたかおうとしています。アフガニスタンに続いてイラク人民を戦火の坩堝(るつぼ)にたたきこむイラク侵略戦争を絶対に許すことはできません。 ところでみなさん! われわれが〇三春闘をたたかおうとしている今、わが労働者階級は一大危機に直面しています。デフレ不況にあえぐ独占資本家どもは、賃金相場をきめる春闘は終わった≠ニ宣言し、さらなる賃下げと首切りを強行しようとしています。しかし、この攻撃に「連合」指導部は完全に屈服し、尻尾を振っているしまつなのです。この危機を突破することができるのは、われわれ以外にはありません。われわれは、「連合」労働貴族や「全労連」指導部の抑圧と裏切りに抗して、〇三春闘の高揚をきりひらくために奮闘しようではありませんか。 以下、見出し 一 戦争前夜、〇三春闘をめぐる情勢 (1)深刻なデフレ不況と労働者への賃下げ・首切り攻撃 (2)「雇用の多様化」の推進と「多立型賃金体系」への転換 (3)小泉政権による労働諸法制の改悪 二 賃下げに協力する「連合」中央の春季生活闘争方針 集票に切り縮める「全労連」指導部 三 総力をあげて〇三春闘を闘おう! 職場からイラク反戦の闘いを! 定昇廃止・賃金大幅切り下げ粉砕! 首切り・労働諸条件の改悪を阻止せよ 労働諸法制改悪、大衆収奪の強化を許すな |
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天駆ける一大叙事詩 「ジハード元年のマルクス」 に感動した! 「カンドーした」ってどこかのバカ宰相の一つ覚えじゃないけど、アタシ、マジ、感動したッ! これはもう天駆ける一大叙事詩だよ。スケール、デカイったらないの! なぁーんと、イマジ力をエネルギー源とする高速艇に乗って、ヒゲダルマのマルクス御大(おんたい)が運転士にレーニンを従えて、あの世、ニライカナイから飛んできた。歯に衣着せぬ舌鋒と深〜い洞察力と熱〜いパトスはいまなお健在。老いてますます、じゃあなくてぇ、あの世では永遠に歳とらないから、いっそう若くみずみずしい。 なんたって、今年二〇〇三年は、マルクス没後百二十年なんだから。ウレシイじゃないの、百数十年の時空間をこえて黄泉(よみ)がえり、二十一世紀のこの世を縦横無尽にかけめぐって、アタシらに会いにきてくれるなんてさ。 なぁんてカンゲキしてたら、『新世紀』の第二〇三号に再録された。しかもコレがまたメチャクチャおもろい解説つき。それでマルクスおじさんにモイッカイ会いたくて、イッキに読みなおしちゃったワ。なにがそんなにオモロイかって? じゃぁちょこっとご紹介。 ジハードの炎燃ゆ ニューヨークを行く そして、なんとマルクスとレーニンの目の前で、WTCのビルに飛行機が突っ込んだ! 崩れ落ちる摩天楼。逃げまどう人びと。この歴史的瞬間を目の当たりにして、レーニンが叫んだ一言は胸にジーンときちゃったわ。レーニンの兄さんがテロリストとしてツァーリに処刑されたときのことを、十七歳のレーニンは深く胸にきざんだのね。「ロシア革命をテロリズムをものりこえて実現したのに、アメリカ本国への史上初の攻撃はテロリストの手によってなしとげられた。それが悔しくて体が震える」って。レーニンの心の震えまで伝わってきたわ。十七歳のレーニンの魂に、アタシいたく共鳴しちゃう。 あら、トロツキーからのメール。「テロは野蛮だ」なんて言ってるこんにちの自称トロツキストのダラクにキレちゃったのね。「自称トロツキストは心に刻め!」マルクスだってボルテージはみるみるあがる。「帝国主義諸国の労働者は、煮えきらない自己にたいする痛烈な告発として受けとめるべきなのだ」「吾輩の思想を看板にしている屑野郎は恥じ入るべきなのだ」って。ウーム、九・一一事件は左翼としての真価が問われた試金石なのよね。 マルクスおじさんカリカリプリプリ怒りながらも、現代世界に興味シンシン、天衣無縫の見聞記。高速艇で、アフガニスタン、パレスチナへひとっ飛び。「ユダヤ人の社会的解放」がイスラエル建国だったとは、なんというブラック・ジョークだろう、と嘆くマルクス。あっ、「嘆きの壁」ってそうゆう意味だったのネ(!?)。だけど嘆いてばかりはいませんヨ。すぐさま、「イスラエル国家を解体し軍隊を放棄して、『すみません、ここに住まわせてください』ってパレスチナ人にお願いしろ」って。「それをイヤがるシオニストとその権力者は、パレスチナ人民とイスラエルの労働者が打倒すべきだ」って。やったぁ! これってまさに二十一世紀のマルクスならばこそ! ゼッタイ生きてりゃそう言うよ! あっそうか、死んでもそう言ってンのか。これぞ、怪気炎の真骨頂。 くたばれ! ヤンキー・ズ 乱痴気ラチ騒ぎの只中で スパイ衛星コロンビア撃墜? さぁさ、さらばじゃ。ササ、そしてザマニへ |
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寄る辺なき彷徨 ――熊野の「若きヘーゲルへの寄港」について 一 薄明のようにも見える。だがまた薄暮のようにも感じられる。――こうした言いあらわしえぬ不思議な感覚、これが本書を読んだ私を襲う。理解不能のゆえかも知れぬ。はたまた著者の哲学的トルソがなお判然としていないゆえなのかも知れぬ。前者であるともいえるし、またこの両者であるともいえる。晴れ渡る秋空に燦々と太陽は照り輝いているにもかかわらず、暗き頭蓋のなかには朧月が浮かんでは消えている。なぜだろうか。少し考えてみる。 <他なるもの>が本書の主題をなしている。しかも<他なるものの地平>の設定が目論まれている。それと同時に、この地平を「こえてゆく」と語りだされたかと思えば、「他者とともに歴史に内属している」(熊野純彦『ヘーゲル』二〇七頁)と暗示しつつ<地平の彼方>にわれらを誘っていく。この肩すかしを喰らわせるような語り口のゆえに、「なにごとかおはしますかは知らねども」の心情が湧きいづる自身を、われらは体感させられてしまうのだろうか。これは間違いかも知れぬ。いま少し考えを進めてゆこう。 主題としての<他なるもの>は詮ずるに、次の一文に示されているといえなくもない。 〔ヘーゲルの〕「或るもの」を問題とすること、したがって同時にまた<他のもの>を問うこと自体が、その両者を見くらべる特定の視点を前提としていよう。だがそれ以上にヘーゲルはたぶん、自己と他者とが対峙する場面、『現象学』の展開にそくしてかたるならば、自己意識のなりたちにかかわるような現場を念頭に、「対他」ということばを練りあげている。/そればかりではない。他のものにたいする存在という次元、他のものにたいする関係という存在の次元は、もともとはひととひととの<あいだ>の関係にこそ原型をもつものであるはずである。(一九四頁) 「同一性〔同〕と非同一性〔異〕との同一性」の論理にみられる「同―異」をこそ原理とするfur unsの観点が赤き糸のごとくに貫かれている。他者が原初だ。始点としての<他者>、これによって措定される身体的自己、その内なる他者、他者を内包したこの自己による他者の措定、この自己にとっての他者の他者、という循環的円環を破るものは何か。<他―自>関係をばその外側に位置する「第三者」fur unsの観点よりみるならば、まさしく<関係>こそが原型たらしめられねばならないという。原理としての<関係>こそが円環的循環を断ちきりうるのだ、と。 なるほど、そうかも知れぬ。けれども同時に、ここにはすでに前提なきはずの哲学に、ひとつの前提が、fur unsという前提がもちこまれている。この前提を前提することにより、主題としての<他なるもの>へのアプローチに或る「解決」があたえられる。 このように考えると、<近代主義的三項図式の超克>というかのテーゼがトラウマになっているかのように思われる。そう言って悪ければ、酷寒のゆえに、室内の暖気や水蒸気がガラス窓にへばりついて薄氷になっているかのように、<三項図式の超克>が物神としてへばりついている、と。 多くの他者のなかの或る他者が身体的自己を措定し、前者が後者の「鏡」となる、という初発の原理を伝統的カテゴリーでいえば、「自己にとっての汝」、「汝の汝としての我」、「汝に見られこの汝を見ている我」、という「我―汝」関係にほかならない。他者〔区別ないし異〕と自己〔同〕との関係を「汝―我」関係におきかえるならば、近代主義に戻ってしまう。 近代主義的二項図式に還帰しないためには、「他―自」関係ないし「異―同」関係を超克せねばならぬ。されど、世間(「世の中」)の<ことはり=理>を、人と人との間柄(ジンカン)の倫理を哲学するためには、他者=汝と自己=我との関係それ自体が問われねばならない。かの<実践的関心態勢>にひらかれる<知覚風景的世界>における「我―汝」関係――「役割の束」を装着したところのロボット人間の函数関係としての「所作態的能作者―能作者的所作態」の関係――、この地平をこえでないわけにはいかない。知覚論の領域ではなく「人倫の学」の領域を哲学せんとするかぎり、「人―間」=間柄が、「汝―我」関係が、したがってまた「この我」が近代的主観ないし主体ではない主体としての我≠ェ問われなければならぬ。これは、「主体を実体とした近代主義」への螺旋的先祖がえりではないのか。ここに、著者熊野のアポリアならぬジレンマが現存在するといってよい。 二〜四は略 五 ヘーゲル哲学体系の成立への輝かしき一里塚をなす『精神現象学』、この「学の予備門」への過程の哲学的模索を、わが哲学屋は追体験しているかのように装っている。これは言い過ぎだろうか。だが、とつづけたい。若きヘーゲルのこの哲学的吟味は、それによってヘーゲル哲学がかたちづくられる諸カテゴリーのさすらひでしかないではないか、と。そう、さすらひ。なぜだろう。 一口でいえば、彼の師の哲学的地平からはみだしているにもかかわらず、このことを自己確認することに怖れおののいている小心者が、彼なのだからである。これは言い過ぎだろうか。たぶん、そうだろう。 でも、「四肢構造の片われ」としての「対他・対自」、しかもヘーゲル本質論にみられる措定・被措定の反照論理から焼きなおされた対他有・対自有、これをはじめとするヘーゲル哲学のもろもろのカテゴリーについて、哲学的模索の過程にあった若きヘーゲルのその時々の展開に――米原子力潜水艦がトランジットするように――停泊して、それを解釈しては、また出航する、というかたちがとられている。このことは、歴然としている。日本帝国主義が安保条約を堅持しているのと同様に、わが哲学屋は<関係の第一義性>という原理を護持しているかの如くである。 だが護持すること自体が悪いと言っているのではない。己の原理を堅持しながら、ヘーゲル港≠彷徨していることが、奇妙なのだ。換言すれば広松港≠ノ停泊しながらも広松艦≠フ上で雄叫びをあげるますらをの気迫に欠けている、と思われる。このゆえに、われらは若きヘーゲルの哲学への遍歴≠ニ言うのである。 若きヘーゲルから老いたる彼への彷徨それじたいを非難しようとは思わない。あでやかなる彷徨をしているその人が臆病者ではないか、こう思うのである。 華麗とも言える文体の底に流れている彼の師への尊敬と師からの背反の苦渋に、われらは寂しさを覚える。寄る辺なきヘーゲル遍歴ではないとしても、いまもなお拠点となっている「四肢構造論」をかかるものとして押しだすことに、わが哲学屋は逡巡している。汝〔異〕にたいする我〔同〕の関係〔異と同における同〕を関係として問うことに躊躇するのは、<近代主義的二項図式の超克>という足かせのせいなのだろう。広松渉の足かせ、彼の呪縛を断ちきる勇気の欠損――これがαでありωなのではないか。 実存的決断は、ここにおいて果たされねばならぬであろう。「実存的に決断する者」は、しかし「主体主義」であり「実体主義」ではあろう。とはいえ、いわゆる「存在の砂漠」としてのヘーゲル論理学を人格化して改釈するという蛮勇を、熊野は発揮してもいる。そうであるがゆえに、<対他・対自―対自・対他>関係をば、マルクス価値形態論の抽象形態として捉えることもなく、またヘーゲル反照論理との関係において省察することもなく、二肢的二重構造の二肢をなす<対他・対自>を――ヘーゲル有論をもちだしながら――人格化して解釈することしかできなくなるのである。 「我と汝」の近代哲学的地平をこえ、<関係の第一義性>の原理にのっとって、われわれであるわれの能為的主体の行為が、「世の中」に=「世間」においてあり・これをこえでてゆくかたちにおいて、論じられるべきだろう。ことは容易である。かの原理が堅持されているかぎり、フィヒテの「自我―非我」哲学に陥ることは杞憂でしかないだろうと思われる。 口はばたいことをつぶやく資格なんぞは、私にはない。私としての私は卑小なる存在でしかない、いや卑小に実存しているにすぎないからなのだ。 どこまでつづくや、ヘーゲル哲学遍歴よ。<対他・対自―対自・対他>関係の人格化を恐れることなく、猪突猛進しなば開かれむ、物象化的錯視なき「人―間」論が。私は、そう思う。狂っているかも知れない、熊野さん。御教授下さい。 (二〇〇二年十月三十日) 熊野純彦『ヘーゲル』批判 ――吉野灘雄―― 本紙掲載論文一覧 ・さびしき思索 ―熊野純彦の「ふれはば」 (第一七五七号) ・侘しき解釈 ―熊野のfur〜をめぐって (第一七五八号) ・寄る辺なき彷徨 ―熊野の「若きヘーゲルへの寄港」について (本号) |
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