新世紀 第273号 2014年11月

「合同労組運動」の名によるブクロ派ハミダシ労働運動の反階級性


 いまブクロ=中核派の残党・中野一派の官僚どもは、「合同労組運動」と称して、非正規雇用労働者を組織化することに残存組織の総力をあげてとりくませている。わずかばかりの地区・地域に残存する下部活動家を中小・零細の諸企業に就職させることによってデッチあげてきた個人加盟の「合同労組」に非正規雇用労働者を組織化して、「拠点」となる「合同労組」を各地区・地域につくり、この「拠点労組」を軸にしてハミダシ労組活動家集団をプールし、「動労千葉派」を標榜する「地区党」として旗揚げすることを、彼らは目論んでいるのだ。

 
この中野一派の叫ぶ「合同労組」の「拠点建設」や「地区党建設」なるものは、わが同盟の追撃を逃れ延命するために、「連合」や「全労連」という労組ナショナルセンターの外側に、「新自由主義と闘う階級的労働運動」をシンボルとした「動労千葉派」という名のハミダシ労働運動の一潮流をつくりだすことを策すものにほかならない。上から下までスパイ分子がひしめきあう国家権力の走狗としての正体をおし隠し、労働者の味方≠テらをして非正規労働者にとりいる、邪悪きわまりない策動なのである。

 
二〇一二年十二月、安倍ネオ・ファシスト政権の成立にさいして、「攻撃が激化する、それはいいことなのだ」などと、この政権の成立を歓呼の声≠もってむかえる反階級的な言辞を中野一派は口走った。それだけではない。わが革命的左翼の労学両戦線における断固たる闘いにもかかわらず、既成反対運動指導部の腐敗と堕落による日本労働者階級の闘いの総じての弱さゆえに、痛苦なことにネオ・ファシスト安倍政権の成立を許してしまった。この日本階級闘争の危機に警鐘を乱打し、<反ファシズム統一戦線>を構築して反撃すべきことをただちに労働者・人民に呼びかけたわが同盟にたいして、「絶望を組織するカクマル」などという悪罵を投げつけ、敵対を宣言したのが中野一派なのだ。

 
労働者・人民に<反ファシズム統一戦線>構築の檄を発しつつ、オスプレイ配備反対―反戦・反安保・沖縄闘争や特定秘密保護法制定反対闘争の大衆的・戦闘的爆発を導き牽引したわが同盟にたいする憎悪にかられる国家権力・安倍政権。これにネジを巻かれた中野一派は、諸々の大衆闘争の場面で闘いを妨害する徒輩として現われ、わが革命的左翼への敵対を試みてきたのだ。この中野一派の反階級的立ち回りと国家権力の走狗としての正体を、われわれは断固として暴露し、労働者・人民の闘いの大爆発をかちとり、もって中野一派のこの敵対を粉砕しつくしてきたのである。

 
労働者・人民の闘いから叩き出された中野一派が、「闘う労働組合をつくることが改憲阻止になる」などとほざきつつ、「合同労組運動」なるものの組織化によって逃げのび延命を策そうとも、わが同盟は絶対に許しはしない。われわれは、中野一派を日本階級闘争の全戦線から一掃しつくす闘いを断固としておしすすめ貫徹する。

T 「合同労組の拠点建設」なる妄想


 
「膨大な青年をはじめとする非正規労働者を合同労組運動に組織し、闘う労働組合をつくりあげていく闘いに、もっと本格的に、全面的に、貪欲に、ねばり強く踏み出し、なんとしても拠点建設をかちとっていくことが求められている。」(ニセ『共産主義者』第一八〇号、二〇一四年四月、北野論文)――このようにがなりたてながら、中野一派の官僚どもは、下部活動家が残存する地区・地域にデッチあげている個人加盟の「合同労組」に、非正規雇用労働者を組織化することに「労組交流センター」にたむろする手配師連中や下部活動家を駆りたてている。

 
こんにち、労働者の多くが独占資本家どものリストラ・解雇によって非正規雇用に突き落とされ、雇い止め、あるいは賃下げ・賃金未払い、長時間労働や強制配転・退職強要などの攻撃にさらされ、貧窮のどん底にたたきこまれている。正規、非正規を問わず労働者が苦境に呻吟させられているこの現実を、許しがたいことに中野一派は、組織のジリ貧化に歯止めをかけ「党勢拡大」をはかる「絶好のチャンス」などと歓迎している。労働者大衆が困窮している今なら、「生きていける賃金をよこせ! 非正規職なくせ!」と叫んでいれば、スパイ集団の正体を隠して労働者の味方づらをすることができ、たやすく非正規雇用労働者をだましオルグで引っかけて「党勢の拡大」をはかれるのではないかなどと浅はかにもソロバンをはじいているのだ。

 
この薄汚い下心をおし隠しながら、中野一派の手配師どもは、地区・地域の職場へのビラ入れや街頭宣伝で「労働相談」をひらいては、面倒見のよい労働組合の役員や活動家≠ニして自分たちをおしだし、「非正規職化に反対しよう」「過労死を許さない」「長時間労働をやめさせよう」などと猫なで声で、未組織の、とりわけ非正規雇用の青年労働者に声をかけ、「合同労組」に加入するように勧誘している。

 
中野一派は、こうして「合同労組」に加入させた労働者を「動労千葉労働学校」と称する彼らの教育・学習機関≠ノ送りこんでいる。そこにおいて中野一派は、「新自由主義攻撃との対決」などというサンジカリズムで粉飾したインチキ・イデオロギーを組織化した労働者に注入し、「動労千葉派」の労組活動家に仕立てあげることを目論んでいるのだ。

 
こうした術策によって地域・地区に「合同労組」を束ねた「拠点」をつくる、そして「拠点」ができさえすれば、この「拠点労組」が旗ふり役となって、「戦闘的な地域労働運動をつくりだし、地域全体が労働組合権力として拠点化していく……」などと、「合同労組運動」の同心円的拡大による延命という夢想を、中野一派の官僚どもは捕らぬタヌキの皮算用よろしくふくらませている。このような「合同労組運動」による「党勢拡大」という夢想を、「党と労働組合の一体的建設」などと粉飾し、「ついにつかみとった『地区党建設論』」デアルと彼らはほざいているのだ。

 
中野一派がいま、この「合同労組運動」の「拠点労組建設」のお手本としておしだして宣伝しているのが、東京都板橋区にあるS会社で結成した「東京西部ユニオン・A分会」である。中野一派が活動家を就職させて〇九年に結成し「階級的労働運動路線の白熱的実践」の成果としておしだし宣伝してきたA分会は、一一年九月のストライキや職場前でのビラまきを理由に活動家三人が処分・解雇された。この解雇の撤回を求めて争ってきた裁判で、今一四年四月十六日に東京地裁が、「解雇撤回・職場復帰と賃金全額支払い」を命ずる判決をくだした。中野一派は、これを「完全勝利」とおしだし、A分会を動労千葉に並ぶ「階級的労働運動」の「拠点労組」として宣伝しているのだ。

 
「拠点」だと? 結成した当初は組合員十六名で出発したにもかかわらず、組合員が次つぎと組合から離反し、新たな組合員も組織化できずに職場の基盤を失い、いまでは解雇された活動家三人だけの、職場に足のない労働争議団と化してしまっているのがA分会ではないか。ダバこと動労千葉をシンボルにした「階級的労働運動」がさも前進しているかのように見せかけ、宣伝に利用するために、中野一派は労働組合をつくった直後からすぐストライキや門前ビラ撒きを組合員に無理強いしてきた。こうして裸踊りを強要することによって組合員を資本家や警察権力の攻撃に無防備のままにさらし、処分や解雇の攻撃をかけられた組合員は、生活のためにやむなく職場を去らざるをえなくなり、一人去り、二人去りして、結局いまでは元からの活動家の三人しか残っていないのが、このA分会なのである。これのどこが「拠点労組」なのだ!

 
中野一派は、これまでもいく度となく、中小・零細企業の職場に「闘う労働組合」を結成したとスパイ通信こと『前進』紙上で宣伝してきた。だが、職場にしっかりと根を張るための追求などまったくぬきにして裸踊り式のストライキを組合員に無理矢理に強要し、中野一派の集会の盛りたて役として組合旗をもたせて演壇に立たせたり、あるいは、組織もジリ貧化し消滅寸前のダバ労の食いぶち稼ぎのための「物販」に組合員を引き回してきた。これにいやけがさした「合同労組」組合員が離反し、残ったわずかばかりの活動家が組合旗にしがみついているだけで、組合じたいは、だまされたことに気づいて離反した労働者とともに雲散霧消してしまっているというのが、中野一派のほざく「闘う労働組合」の「豊かな発展」なるものの実態ではないか。

 
現に、昨一三年には、中野一派がテッチあげている群馬県の「B合同労組」から、「B合同労組C分会」の組合員十一名全員が脱退してしまってもいる。これは、中野一派が、ダバ労支援の「物販」や署名活動に組合員を引き回したがゆえに、当然にもこれに組合員たちが反発したからなのである。

 
こうした「合同労組運動」なるものの惨状をおし隠すためにこそ中野一派は、A分会の「解雇撤回」判決などを「一大反撃」、「完全勝利」とことさらにスパイ通信やインターネットで宣伝しているのだ。「A分会の勝利」には「階級的労働運動の豊かな発展の普遍的意義と可能性が示されている」(『前進』=スパイ通信第二六三〇号、一四年「春季特別号」)などと厚化粧を施し、どの職場でも、A分会のように「階級的労働運動路線」でたたかえば「完全勝利」がかちとれるかのように言いくるめつつ、下部同盟員やナケナシの労組活動家に「階級的労働運動は前進している」と信じこませ「合同労組運動」にひたすら邁進させようとしているのが中野一派の官僚どもなのである。

U 「資本との対決」の名による裸踊りの強要


 
中野一派の官僚どもは「労働者階級と資本は絶対非和解」などというテーゼをふりまわし、「職場で資本・権力と絶対非和解で闘う」ことを組合員・活動家に強制している。「解雇、退学、逮捕・投獄、統制処分、どんな理不尽な攻撃が襲いかかろうとも、恐れず一歩も引かないで闘えば、逆に弾圧や処分は新たな団結をつくり出す決定的チャンスに転化する」などと、うそぶきつつである。

 
「絶対非和解」で「一歩も引かないで闘え」だと? 「検修外注化は動労千葉破壊攻撃だ」、「絶対に阻止する」とわめいて、「外注化阻止決戦」への決起を呼号しておきながら、二〇一二年十月に、いざ下請企業「千葉鉄道サービス」(CTS)への出向が組合員に命じられるや、一歩引く≠ヌころか、きびすを返してサッサと出向に応じたのがダバ労ではないか。自分たちは「弾圧や処分」を恐れて組合の温存をはかっておきながら、「合同労組」の非正規労働者や他産別・諸戦線の下部活動家・組合員には「絶対非和解」を強いているのが大原武史(=辻川慎一)・松丘静司(=田中康宏)らダバ労出身の中野一派官僚ではないか。

 
ダバ労をシンボルに戴いた「階級的労働運動」という名のハミダシ労働運動を、「連合」や「全労連」などの「体制内労働運動」に対抗する「潮流」としておしだしつつ、これが「前進」しているかのように粉飾することに必死になっているのが中野一派の官僚どもなのだ。彼らは、「独自潮流」の結集と称した集会やデモにすこしでも多く労組の旗を掲げ、なんとか「闘争」の体裁をつけた誇大記事で『前進』紙上を飾りたてることに汲々としているのだ。もっぱらストライキや争議などのできるだけ派手な′`態をとって資本家・経営者にたいする労働組合員の「闘い」を組織化≠オ、「体制内労働運動」との対比で、ただただ闘争形態の戦闘性≠演出して「絶対非和解」の闘いだと宣伝し、「闘う労働組合」の潮流が「連合」や「全労連」に対抗しうる存在であるかのように労働者大衆にアピールすることのみが、中野一派の魂胆なのだ。そうすることによって、既成の労働組合に不満を抱く未組織の・非正規雇用労働者たちにとりいり、彼らを「合同労組」に加入させ束ねることを策しているのだ。

 
したがって、職場のなかに基盤をしっかりとつくりだす追求などまったくソッチノケにして労働組合を結成(いやデッチあげ)させ、資本家や国家権力の組合破壊工作や弾圧に耐えるだけの組合員の主体的・組織的強化をはかりもしない。資本家・企業経営者による組合切り崩しや警察権力の弾圧から組合員・労働者を守り組合組織を防衛するということなど、露ほども中野一派の官僚どもは考えていない。そのような追求とはまったく無縁に、ストライキなどの闘争形態をとって闇雲に組合員を「資本家との闘争」に突入させ、「スト決行中」の組合員の顔写真と実名入りの報告記事をスパイ通信に掲載したり、中野一派が主催する集会やデモに組合旗をおしたてて参加させ、壇上に組合員全員を並ばせて発言させては、「闘う労働組合」として宣伝しているのが中野一派なのだ。

 
このようにして、資本家・企業経営者と結託した警察権力による組織破壊攻撃や弾圧のまえに組合員を無防備のまま餌食としてさしだしていながら、「弾圧や処分は新たな団結をつくり出す決定的チャンスに転化する」とわめいて、組合員に「絶対反対・絶対非和解」の裸踊りを強要しているのが中野一派なのである。

 
今は亡き頭目・中野洋は、二〇〇八年当時、臆面もなく次のようにほざいていた。

 
「非正規労働者にとっては、ある会社を解雇されたとしても、同じような条件で働く職場は多くある。処分や解雇を恐れない労働者が登場したら、相当な闘いができる」(『甦る労働組合』「エピローグ」)、と。

 
このスパイ集団の頭目にならって、中野一派の官僚どもは、非正規労働者は解雇されても働き口はいくらでもあるのだから、「動労千葉派」の宣伝のためには、処分や解雇を恐れずたたかえ≠ニ、非正規労働者の組合員に裸踊りを強要して恥じないのだ。それは労働者を自分たちの組織の延命のための捨て駒にする犯罪的=反階級的な所業いがいのなにものでもない。

 
そもそも、「連合」および「全労連」という既成のナショナルセンターのもとで、「連合」労働貴族どもや「全労連」の日共系ダラ幹どもによる労組支配と種々の闘いの歪曲・放棄に抗して、既成労働運動をその内側から戦闘的=左翼的にのりこえ闘いを創造していくことを完全に彼岸化し、既成ナショナルセンターからはみだし、その外側に「階級的労働運動」と称する「独自潮流」を形成し・その拡大を画策しているのが中野一派なのだ。

 
彼らは、「連合」および「全労連」の既成労働運動にたいして「体制内労働運動」というレッテルを貼りつけ、「労働貴族や体制内派との闘争をやりぬき、組合の主導権を彼らの手から奪い返して、闘う労働組合をよみがえらせる」などとほざいている(中野一派『綱領草案』「解説」)。そもそも「体制内指導部」から組合の「主導権」を奪いとりうる組織的力などは(もとよりそのためのイデオロギー的武器も)毛頭もっていないからこそ、ハミダシ労組のささやかな一潮流をつくることに棲息圏≠見い出しているにすぎないのが、中野一派なのだ。「体制内指導部」から組合の「主導権」を奪いとれば「プロレタリア革命」が実現できるなどという、それじたいサンジカリズムまるだしの吹聴は、わが同盟の闘いに追いつめられた敗残者たる己れの惨めな姿をおし隠しつつ「潮流」形成の展望≠ェあるかのように労働者大衆を欺くための誇大宣伝いがいのなにものでもない。それこそ、労働貴族どもによってネオ産業報国会に完全に変質せしめられている「連合」、これを<脱・構築>し日本労働運動の戦闘的再生をおしすすめるという困難な闘いを放棄したハミダシ主義の戯画でしかないのである。

 
労働貴族どもに牛耳られ完全にネオ産業報国会と化している「連合」のもとで、傘下の労働組合の多くは企業の第二労務部と化し、労組の指導部は組合員の労働者としての利害を守るのではなく、まったく逆に独占資本家によるリストラ諸施策の貫徹に手を貸し、組合員の闘いを抑圧している。非正規雇用の労働者を多く組織しているUAゼンセンの労働貴族などは、労使紛争≠ェおこらないように非正規雇用労働者を組合に囲いこみ資本の利殖のために生産性向上に駆りたてることによって資本家・企業経営者の歓心を買うことに腐心しているほどなのだ。利潤増大のために低賃金の非正規雇用労働者を徹底的に酷使=搾取する資本家どもにたいして、彼ら労働貴族どもは協力・加担こそすれ、非正規雇用労働者の賃金・労働諸条件改善(正規雇用労働者との「格差是正」)など決してマトモに追求しないのである。

 
また、日共系ダラ幹に支配された「全労連」の労働組合運動は、「健全な資本主義」への日本資本主義経済の「改良」をこととする修正資本主義路線にもとづく諸々の代案(日共のそれ)の採用を政府・独占資本家どもに請願しながら、それらの代案の宣伝=日共の票田開拓をこそ主眼としたものに解消されてしまっているのである。たとえ「非正規雇用労働者の待遇改善」「格差是正」を前面におしだしているとしても、彼ら「全労連」ダラ幹は、資本主義の「改良」のための「保守層との共同」形成を主眼とする基本路線にもとづいて、「保守層」たる中小企業経営者に媚を売り彼らから日共への支持票を得ることを優先事項とし、中小企業の非正規雇用労働者の利害の貫徹などは実質上は二の次にしているのだ。

 
こうした「連合」労働貴族どもや「全労連」の日共系ダラ幹などの既成労働運動指導部の度しがたい腐敗のゆえに、労働組合の存在意義すら労働者(とりわけ非正規雇用労働者)が実感できなくなり、労働組合の組織化率も著しく低下し、組合があってもまともに機能していない職場や、組合のない職場が圧倒的に多くなってしまっているわけなのだ。

 
このような日本労働運動の危機を突破していくためには、「連合」労働貴族どもによる闘いの抑圧や、日共の票田開拓に労働運動を収斂させる「全労連」の日共系ダラ幹どもの闘争歪曲を打ち破りつつ、諸独占体のリストラ攻撃に反対する闘いや安倍政権の「労働分野の規制緩和・撤廃」政策に反対する闘いなどを職場生産点において下からつくりだし、これをつうじて、正規・非正規の違いを超えた労働者としての階級的団結を「連合」や「全労連」の傘下の労働組合の内部に再構築していくのでなければならない。そのためには、職場生産点における諸々の闘いの組織化のただなかで、「連合」労働貴族どもや「全労連」日共系ダラ幹がうちだしている闘争方針の反労働者性を暴露し批判するだけではなく、彼らの労働運動路線やそれを基礎づけている反労働者的イデオロギー、「日本経済の安定的・持続的成長」のための労使政協議の定着≠主眼とした労使政協議路線と「労使政運命共同体」思想(「連合」)や「資本主義の枠内での改良」路線(「全労連」)、これらにたいする思想的=革命理論的な批判を強化していくことこそが絶対に不可欠なのである。こうしたイデオロギー的=組織的闘いによって、階級意識を眠りこまされ分断されている多くの組合員や未組織の労働者大衆に労働者階級としての覚醒をうながしつつ彼らの階級的組織化をおしすすめていくのでなければならないのである。

 
まさにこのような労働者の階級的組織化をおしすすめる闘いを「連合」や「全労連」傘下の各労働組合の内部において(またその傘下にない労組や労組のない職場においても)粘り強く展開することを放棄し、その彼岸において、既成のナショナルセンターの枠をハミダシた「潮流」をつくりだすことを企む中野一派の策動は、労働者階級の階級的組織化を阻害する犯罪いがいのなにものでもない。

 
「連合」を<脱・構築>し、日本労働運動の戦闘的再生をかちとるために困難な闘いを不屈かつ着実におしすすめているわが革命的左翼にたいして、もはや微々たるものでしかないとはいえ、「体制内派との対決」「組合権力をめぐる党派闘争」などと称してなお敵対し、国家権力の走狗としての正体をおし隠しつつ労働戦線の片隅に「合同労組運動」と称した棲息圏≠求め延命のために蠢動している中野一派。この徒輩の反階級的・反革命的所業を、われわれは絶対に許しはしないのである。

V 「新自由主義攻撃との闘い」という粉飾


 
中野一派の「合同労組運動」なるものは、あくまでも国家権力の走狗としてのけがれきった正体をおし隠しつつ自己の組織的延命を、それもつまるところは動労千葉=ダバ労を中核≠ニしたハミダシ労組活動家集団としての延命をはかるための術策でしかない。それじたい絶対に許しがたいこの延命策を、中野一派の官僚ども、とりわけ辻川・田中らダバ出身の官僚どもは「新自由主義攻撃と闘う労働運動」=「階級的労働運動」の「発展」などと粉飾しているのだ。「国鉄、全逓、教労、自治労の4大産別決戦」、とりわけその基軸中の基軸≠ナある「国鉄決戦」に向けての陣形づくり≠ニして、この「合同労組」を束ねた「動労千葉派」労働組合の結集を位置づけながら、である。

 
だが、「合同労組運動」の意義づけとしてもちだされているところの、「非正規職撤廃」をスローガンとする「新自由主義攻撃との闘い」なるものじたいが、きわめてデタラメにしてインチキな代物でしかないのである。

 
ダバ労支援≠ノ駆りたてるための道具立て

 
まず第一に、「新自由主義攻撃との闘い」というイデオロギー的シンボルは、政府ならびに独占ブルジョアジーの諸攻撃にたいする種々の「闘い」・諸戦線の「闘い」を「国鉄決戦」という名のダバ労支援≠ノ収斂させるための道具立てであり、その意味で邪悪な企みを正当化するための虚飾にすぎないのだ。

 
中野一派は言う――非正規雇用労働者による「合同労組」の結成は資本による労働者の解雇=「大失業攻撃」「非正規化攻撃」にたいする闘いであるが、非正規雇用労働者の待遇改善を要求するのは、「資本による労働者の非正規化」を認めたうえでのものであって、「労働者を救済の対象とみる労働者蔑視の思想」であり、「労働者は闘っても勝てない」とする「体制内の思想」である。ゆえに、非正規労働者は「非正規職撤廃」をスローガンに、「非正規化」の根源である「新自由主義」と「絶対非和解」でたたかわなければならない、と。そして、この「新自由主義が打ち下ろす最大の攻撃が民営化・労組破壊」であって、したがって国鉄の分割・民営化にたいする闘いこそ「階級闘争の基軸」ナノダ、と。こういう論法≠ナ、「合同労組」結成も「国鉄決戦」に向けての闘いデアルというように収斂させてしまうわけなのだ。「合同労組運動」などといっても、それはあくまでも、ダバ労支援≠フための物販とか偉大なダバ労≠宣伝して回るための「国鉄10万筆署名」に「合同労組」に囲いこんだ労働者を駆りたてることを企む術策でしかないのである。

 
「非正規職の撤廃」などと叫びたててはみせても、実は、独占資本家どもにとって使い捨て自由≠フ非正規雇用労働者の大量創出・利用に法制的な保障を与えようとしている安倍ネオ・ファシスト政権の「労働分野の規制緩和・撤廃」=労働諸法制の大改悪攻撃――これこそ「新自由主義攻撃」というべきものだ(後述)――にたいする反撃の闘いを、中野一派は何ら組織化していないではないか。この闘いの創造とは無縁に、ダマシオルグで「合同労組」に引っかけた非正規雇用労働者を、ダバ労支援に利用することこそ、まさに国家権力の走狗ならではの労働者蔑視の思想≠フ醜悪きわまりない露頭にほかならない。

 
しかも、この手の術策は、より重大な問題にまでおよんでいる。

 
七月一日、安倍政権が「集団的自衛権行使」合憲化の閣議決定を強行しようとしていたまさにその日に、首相官邸前・国会前でたたかわれた「閣議決定阻止・安倍政権打倒」の労働者・学生・人民の激闘の場に、中野一派のほんの少数の一団がノコノコ現われはした。だが、彼らがそこでやったことといえば、「集団的自衛権行使」合憲化阻止の闘いとはまったく無縁に、「国鉄10万筆署名」のビラをこそこそとまいただけであり、それ以外は、ただ突っ立っていただけなのだ。

 
この事実ひとつだけで、中野一派が労働運動・大衆運動にとりくむのは、ダバをシンボルにした「国鉄闘争」の宣伝のためでしかないことが歴然としているではないか。

 
これと同様に、オスプレイ配備阻止や辺野古新基地建設阻止の闘いの組織化には職場で何ひとつとりくまず、「国鉄闘争を闘う合同労組の拠点をつくることがオスプレイ配備阻止になる」、「国鉄闘争を実践する労働組合をつくることが辺野古基地建設阻止の闘いだ」などとデタラメきわまりないコジツケを並べたてて、「新自由主義攻撃と闘う国鉄闘争の実践」と称してダバ労の食いぶち稼ぎのための「物販」や「国鉄10万筆署名」に非正規雇用労働者を引き回している。これが中野一派の「沖縄闘争」の内実なのである。(註1)

 (註1) 
このようなふざけきった術策にたいして、「国鉄闘争だけでなく改憲阻止の大衆闘争を組織化すべきだ」「なぜ『党中央』は改憲阻止にとりくもうとしないのか」――「国鉄闘争支援」に引きずり回されている「諸戦線」などの手配師・活動家たちが不満と反発を噴きあげてもいる。
 
これにたいして中野一派の官僚どもは、「改憲攻撃は新自由主義攻撃の集約点である。したがって、なによりも階級的労働運動で迎え撃つことが改憲阻止闘争の勝利の道である」(ニセ『共産主義者』第一七六号、二〇一三年四月)などと喚きたて、「労働組合での国鉄闘争の実践」が憲法改悪阻止の闘いとなるのだと強弁している。そうすることによって、下部活動家からの批判や反発を官僚主義的に封殺することに汲々としている始末なのだ。
 
〔ブクロ派「全国労組交流センター」の常任委員であったスタンダードバキューム労組(「ス労自主」)委員長の入江史郎は、代表運営委員の「一三年新年座談会」で「改憲阻止闘争をきちんと真ん中に位置づけるべきだ」と憲法改悪反対闘争への「交流センター」としての取り組みの必要性を主張した。これにたいしても、同じく代表運営委員の動労水戸副委員長・辻川(=大原)は、「組織拡大に結びつかないかぎり取り組んでも無駄」などと言ってのけ、入江の主張を真っ向から否定したのだ(『月刊労働運動』一三年一月号)。〕
 
「憲法第九条」をなきものにすると同時に、日米新軍事同盟の対中(対露)攻守同盟としての本格的構築・強化に突き進むという一大反動攻撃を安倍ネオ・ファシスト政権がうちおろそうとするこの決定的瞬間に、たたかうことを放棄し、ただただ走狗版「国鉄闘争」なるものに結びつくか否かの損得勘定に汲々としているのだ。それこそ、労働者・人民の闘いにツバを吐きかける反階級的所業であり、国家権力の走狗たる己れの正体の自己暴露にほかならない。

 
何もかもゴタまぜにした「新自由主義攻撃」分析

 
第二に、右のような薄汚ない思惑にもとづいてふりかざしている「新自由主義との闘い」というイデオロギー的シンボル=道具立てそれじたいが、まったくもってデタラメな代物なのである。

 
中野一派は、こんにちの政府・支配階級の政治的・軍事的・経済的の諸攻撃を、すべて「新自由主義攻撃」という規定で一括し、その「最大の攻撃」が「民営化・労組破壊」だと強調している。彼らは、反グローバリズムの論者たちの主張をこっそり剽窃し、「帝国主義(資本主義)の絶望的延命形態=新自由主義」などというテーゼ≠ふりかざし、<3・11東日本大震災・福島原発事故>以降は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をこっそりと密輸入して、「新自由主義的『ショック・ドクトリン』」などという用語をちりばめてもいる。大震災も原発大事故も「新自由主義攻撃」だ、というわけだ。

 
中野一派が「新自由主義攻撃」と描きだしているもののうちには、あらゆるものが詰めこまれている。歴代自民党政権の安保=軍事政策、教育政策、原発・核開発政策、経済諸政策(財政・金融政策だけでなく種々の公共部門・公共企業体の民営化政策や規制緩和政策、社会保障政策・社会労働政策も含む)や労組対策から、独占ブルジョアジーおよび中小企業資本家どもによるリストラ(企業再編)諸施策とその一環としての労働者の首切り・賃金切り下げ攻撃にいたるまで、これらの諸政策・諸施策が貫徹される実体構造を無視して、そして政府の政策とそれにバックアップされた独占資本家どものリストラ諸施策との区別もなく、一切合財がナベブタ式に盛りこまれている。まったくムード的にしてデタラメな規定なのだ。だが、新自由主義的諸攻撃というのであれば、それは直接には政府の経済諸施策にかかわるのであって、歴代自民党政権(主として、かつての中曽根政権、近くは小泉政権)がその経済諸政策の策定・実施において、金融の自由化、公共部門・公共企業体の分割=民営化、社会保障制度の「自立・自助」を謳っての改悪(財政支出の大幅削減=労働者・人民への負担の転嫁)、労働分野の規制緩和・撤廃などの諸施策を採用し、それらを強権的に貫徹しようと策してきたことを指すのである。これらの諸施策の採用が、まさにそのような「政策案」を提唱したフリードマン(マネタリスト)やブキャナン(公共選択学派)らのヤンキー帝国主義製「新自由主義経済学」――ケインズ主義経済学へのアンチとしてのそれ――に依拠してなされたのだからである。

 
右のようなイロハをわきまえることなく、ブルジョア政府の諸政策のすべてを、のみならず独占ブルジョアジーおよび中小企業経営者どもの経営諸施策までも含めて、一切合財を「新自由主義攻撃」などとゴタまぜにするのは、理論的にはとんだお笑い種でしかないのだ。(註2)だいたい、「新自由主義攻撃」とあげつらってはいても、政府の新自由主義的な経済諸施策と、その策定にさいして採用された新自由主義経済学者の経済政策案・理論・イデオロギーとをまともに分析しその特性をつかみとったうえで、そのように規定しているわけでは毛頭ない。中野一派が描きだす「新自由主義攻撃」とは、つまるところ、歴代政府による公共部門・公共企業体の分割=民営化や労働市場の規制緩和、そして独占ブルジョアジーによる大リストラと労務管理強化・労働組合破壊などがもたらしている非正規雇用労働者の増大や労働者・人民の困窮化という現実を結果的・現象論的にあげつらい、「資本の論理をむきだしにした弱肉強食の論理」だと特徴づけているものにすぎないのだ。

 
そもそも政府と独占ブルジョアジーおよび中小企業資本家という諸実体の区別もぬきにして、「新自由主義」とか「新自由主義攻撃」とかという規定を実体化してふりまわし、その「攻撃」の結果としてもたらされる労働者階級への貧困の強制という現実を「資本の論理」の貫徹として解釈しあげつらうのは、まさしくサンジカリズムに染まりきったオツムの持ち主ならではの、政府による政治的・経済的・軍事的諸政策の貫徹を無視した基底体制還元主義≠ネのである。それというのも、ブルジョアジー独裁権力を「資本の社会的権力」の直接的延長線上において後者の総和≠ニしてのみ捉えるサンジカリズムに特有の没国家論が、そこにつらぬかれているのだからだ。

 
しかも、つまるところは「資本の論理」に還元する内実の「新自由主義攻撃」についてのデタラメな把握は、「国鉄決戦」なるものに一切の闘いを収斂させ、安倍ネオ・ファシスト政権の「労働分野の規制緩和・撤廃」=労働諸法制大改悪や社会保障制度大改悪などの攻撃にたいする闘いの組織化をまったく放棄する方便≠ネのだ。これらの攻撃こそ小泉式の新自由主義的「構造改革」政策を受け継ぐものであるにもかかわらず、これを打ち砕く闘いを何ひとつ組織化しないで、「新自由主義攻撃との対決」を吹聴することなどは、いうところの「新自由主義攻撃との対決」なるものが闘いの真の矛先をずらすためのイカサマ=虚構でしかないことの自己暴露ではないか。これこそ、中野一派の国家権力の走狗としての本性のなせる邪悪な術策いがいのなにものでもない。

 
こうした反階級的立ち回り――もちろん国家権力にネジを巻かれてのそれ――を、われわれは絶対に許しはしない。断固粉砕するのみ!

 (註2) 
何でも「新自由主義攻撃」のマンガ性を示すものは、――
 
その一、「国鉄のない沖縄でも国鉄闘争が基軸」――沖縄の施政権返還は、沖縄にたいする「新自由主義攻撃」である。したがって、「新自由主義反対の国鉄闘争をたたかう労働組合」をつくれば、労働組合の力で辺野古基地建設を阻止できる。
 
その二、オスプレイ沖縄配備は「新自由主義攻撃」である。なぜならオスプレイは新自由主義のレーガン政権の一九八〇年代に開発がはじまったからである。――この、涙ぐましいまでのこじつけ!
 
その三、もっと傑作なのが、謀略隠蔽のためのイケニエとしてつくられたブクロ派の「革命軍」の一員として権力によって逮捕された福島昌男。二〇一二年に実刑十二年をくらって、府中刑務所で服役中のこの男の獄中からのメッセージが、スパイ通信二〇一四年新年号に掲載された。
 
いわく、「新自由主義攻撃に対し、中核派は1986年4月に米軍横田基地を、5月に迎賓館の東京サミットを砲撃しています」と。
 
「革命的武装闘争」と称して、国家権力内謀略グループが実行した「ゲリラ」を、自分たち中核派がやったものだと「革命軍」の「軍報」で追認してきたそれを、「新自由主義攻撃に対する闘い」だったなどと、こんにちになって意味付与しているのだ。謀略の追認集団でしかなかった己れの過去の姿をおし隠すために、自分たちは、ずっと「新自由主義攻撃」にたいする闘いをやってきたのだと強弁しているのが、中野一派である。

以下見出し

W サンジカリズムを丸出しにした「地区党建設」

X スパイ集団の最後の延命策を粉砕せよ
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