権力犯罪を逆証した文春版「両親の手記」 西郷 正行
1997年の「神戸児童連続殺傷事件」にかんして、A少年の両親の「悔恨の手記」と銘うった『「少年A」この子を生んで……』という単行本が文藝春秋社から発刊された(4月2日)。 『「少年A」この子を生んで……』(以下、『この子を生んで』と略す。引用は頁数のみ記す)は、A少年の「父母の手記」とはされているが、本書の巻末に「構成−森下香枝(ジャーナリスト)」と記されていることからも明らかなように、両親が書いたと思われる「メモ」や「日記」を、文藝春秋社の記者(森下)が「再構成」したものである。警察権力の意を受けたこの記者が意図的に「構成」したと思われる箇所をカットするならば、本書には「A少年犯人」説の虚構を実証する決定的な新事実が数多く明らかにされているといえる。両親が綴った「メモ」と事件当時の記憶にもとづく「証言」と称するものからも、まさしくかの事件が、A少年が無実の罪を着せられ神戸家裁で不当な審判を下された冤罪事件であることがしめされている。 公表された「メモ」や「日記」と称されるものは、ブラックジャーナリストが、事件をA少年の犯行とするために、「手記」を「構成」しなおし、意図的に脚色を施したものだといえる。だが、たとえそうであるとしても、その内容は、事件当時、少年の最も近くにいた両親による、A少年が事件の犯人ではないとする、生々しい証言として画期的な意義をもつものである。そして、警察権力が権力犯罪を隠蔽するために、A少年に、また両親に、いかなる姑息な手段を駆使してA少年を犯人にしたてあげたかということを鮮やかに示すものになっている。それだけではない。彼の弁護団が、事を荒立てて日本共産党の票が減ることを恐れて、何の証拠もなしに不当に逮捕されたA少年を少しも「弁護」しなかった、ということについても明るみになっているといえる。 われわれは、それじたい右のように馬脚を露わにしたものであるとはいえ、両親の「手記」と称されているものの発刊をつうじたA少年を事件の犯人として仕立てあげるために開始された新たなデマ・キャンペーンを絶対に許してはならない。しかも、わが同盟が神戸事件をめぐるイデオロギー闘争をダイナミックに展開していることに恐怖心をつのらせている国家権力は、わが同志にデタラメな指名手配攻撃をかけ不当・違法に逮捕してきただけでなく、ブルジョア・マスコミを使って許しがたいデマ宣伝に奔走している。この悪らつな攻撃を断固粉砕するのでなければならない。日本帝国主義権力者は、アメリカ帝国主義の戦争放火に呼応して、ガイドライン関連法案の制定とともに日本型ネオファシズム支配体制を磐石なものたらしめるための諸攻撃を仕掛けてきているのだ。われわれは、この攻撃を全力をあげて粉砕するのでなければならない。 一、偽造された「A少年父母の手記」 A、「文藝春秋」による恣意的な編集 A少年の「両親が二年間の沈黙を破り、悔恨の涙とともに綴った息子Aとの全て」と称して、文藝春秋が発刊した『この子を生んで』は、その内容からして、神戸事件の謀略的権力犯罪としての性格を隠蔽することを企む警察・検察の意を体した文芸春秋社の稚拙な”創作文集”でしかない。それは次の点から推断できる。 まず第一に、「息子が『酒鬼薔薇聖斗』だと知ったとき」という章を、実質的な冒頭の章にしている、ということである。つまり、A少年が犯人であることを前提として、過程をふりかえるという策を弄しているのだ。事実、97年5月24の事件当日も、「Aの洋服の汚れなどには、特に気が付きませんでした」(225頁)とか、6月28日に逮捕されるまで「Aの様子は私の目から見て普段と何ら変わりがありませんでした」(229頁)とかというように、最も身近にいてA少年の行動を知っている両親の決定的な証言をかき消すことにやっきになっているのだ。 第二に、97年12月11日に東京都府中市にある関東医療少年院の面会室でA少年と会ったとき、「なぜか突然、現実をようやく事実として客観的に認めることができました」(43頁)とことさらに強調していることである。けれども、「やはりウチの息子があの事件の犯人やったんや」(42頁)といった「フッと直感めいた考えが、頭を過りました」(同)とはいわれているが、A少年のどのような発言から、そのような「突然」の「直感」が「頭を過った」のかということについては、明らかにされているわけではまったくない。いやそもそも、淳君の頭部が友が丘中学の正門で発見されたテレビのニュースを、児童相談所の待合室で見ていて「このときAが興奮するとか、慌てるとか、少しでも異常が見えれば、何かちょっとは勘付いたかもしれません」(222頁)といった母親のA少年にたいする認識が、一八○度転換した具体的根拠が、何ひとつ明らかにされていないということである。 そして第三に、A少年を「犯人」にしたてあげるための具体的証拠が何らないことから、母親の「育児日誌」と称してA少年による猫の解剖をデッチあげ、このA少年の成長期における”異常性”が、人を殺すことになる、と恣意的に描きだしていることである。しかも、それじたい捏造されたところのA少年の”異常性”に、つまり神戸事件の「前兆」とされていることに気がつかなかった、などという強引な”反省”を両親にさせていることである。 B、編集者の無能ぶりの自己暴露 無能な週刊誌の記者どもが児童を連続的に殺す精神異常者としてA少年を描きだし世間に印象づけることを狙って両親に描きあげさせたものは、彼らの思惑とはまったく裏腹な、ごく普通の十四才の少年の姿でしかなかった。A少年は、「炊事場でチョロチョロしているゴキブリを私(母親)が叩くのを見て、A『母さん、そのゴキブリにも一つの命があるんやで』」(210頁)といって母親に「食い下がってきた」ように、小動物を愛護しようとする健気な少年でしかなかった。 それだけではない。97年5月13日に、「同級生の友達を殴った」として、翌日に父親とともに学校に呼び出されたA少年は「ブルブルふるえるばかり」(207頁)の気の小さい少年であリ、ホラービデオさえ「決して一人で見ようとは」せず、「母さんも一緒に見よう」(216頁)という「怖がり」(同)の少年であったのだ。そして、猫を見付けては石を投げ、殺害し、解剖し、舌は瓶詰めにしていた、とされている十四才の少年は、可愛がっていた犬(サスケ)の「餌を横取りしにきた野良猫を、追い払ったり」(161頁)していたという程度の過去を背負っているにすぎなかった。 両親の「悔恨の涙とともに綴った手記」と称するものが、無能な週刊誌記者どもの作文でしかないことは、さし当りここではこれ以上問わない。けれども、わが同盟が「酒鬼薔薇聖斗」事件をめぐる数々の疑惑と謎を、事件の具体的分析にもとづいて的確に突き出したことに対抗して、姑息な反論を試みながら、逆に、破産し、むしろ、不様なボロを出してしまったことについては簡単に列挙しておくことにしよう。 ボロ、その1。両親がA少年の「供述調書」を読んだのが「今年に入って」(146頁)と書かせたかと思えば、別のところでは「審判が終了して、報道など周囲が落ち着いてきた頃」(241頁)と、97年暮れごろを指してみたりしていること。このことは、「調書」を渡した弁護団や松井清人(「週刊文春」編集長)、森下香枝(同、記者)らの無能な記者が「手記」の背後にいることを歴然としめしている。 ボロ、その2。「兵庫県警捜査員がA少年を連行したとき、犯行声明文の筆跡とA少年の筆跡の鑑定結果がまだ出ていなかったにもかかわらず、あたかもピッタリと一致したというように説明し、声明文とノートを見せて自供を迫り、A少年は観念して自供した経緯がある」(106頁)などと、わざわざ「編注」をつけているが、このことは、「神戸家裁決定要旨」の第四項目について、松井、森下らの編集者どもがまったく理解していないこと。この程度の頭脳の持ち主が、警察権力に指示されてわれわれのイデオロギー闘争に”反論”を試みるとは! ボロ、その3。「Aは勉強は、まったくダメ。通知表も2ばかりでした」(83頁)と言うかと思えば、「いつも2か3しかならんだことのない通知表の中に4がふたつ混じっていたのを覚えています。それは技術家庭と国語だったかと思います。」(162頁)と、事実関係がまったくでたらめであり、直接の編集者の「構成力」のなさを自己暴露していること。 二、「A少年=犯人」説を覆す決定的な新事実 『この子を生んで』の発刊は、神戸小学生惨殺事件の真相と深層を究明しようとするわれわれに決定的な新事実を提出するものとなった。 まず第一、にA少年と直接面接した両親が、少年から「自分が犯人だ」という発言をまったく聞いていないことが明確になっている。それだけではなく、神戸家裁の審判(97年10月17日)の「決定要旨」第四項目にみられる「偽計による自白」をA少年みずから「僕を騙したあの警官は今どうしているのですか」(106頁)と両親に直接訴えたことも明らかとなっている。(家裁では8月4日に訴えたといわれている。) 第二に、A少年を「犯人」にしたてあげるための警察権力による事件捏造の構造が、両親の「手記」や「日記」と称するものをつうじてはしなくも暴露されているのだ。 そして第三に、A少年の弁護団もまた、警察権力の捜査にたいしてA少年を弁護する権利を放棄していたということが、両親の「悔恨の手記」として綴られているのである。以下、この三点について詳論することにしよう。 A、矛盾だらけの弥縫策=新たな物語 『この子を生んで』の最大の特徴は、A少年が、終始一貫して神戸小学生惨殺事件の犯行を認めていないことが、両親の「手記」としてあきらかにされているということであろう。 この事件の「犯人」が、97年6月28日に逮捕された少年である、ということをキャンペーンするために、警察権力と文藝春秋社が合作でつくりあげたのが、両親の「悔恨の手記」なのである。ところが、権力とブルジョア・ジャーナリズムの思惑とはまったく逆に、この「手記」では、事件が冤罪事件であることが鮮やかに浮かび上がるのである。本書では、少年を弁護しなかった弁護団に促されて両親が「〈ああやはりウチの息子があの事件の犯人やったんや〉」(42頁)という「実感」を無理矢理語ることに眼目がおかれている。ところが、「事件」のあった5月24日から27日にかけてA少年の最も身近にいて「息子」のアリバイを確信している両親の「手記」は、むしろ、「あの子の口から真実を聞くまでは信じられない。きっと何かの間違いに違いない。」(25頁)という判断を書き綴っているのだ。それは、「いつかは、A本人から『会いたい、父さん、母さん、助けてくれ。ここから(警察)出して。罪をはらしてくれ』」(25頁)というA少年の連絡を待ち続けていた母親の心情からしても明らかである。 それだけではない。「『母さんこれ絶対僕と違う』とあの子が言えば、恐らく私はその言葉を信じていたと思います。」(26頁)とか、「あの子の『僕じゃない』というひと言があれば、私は動くのに。…たとえ近所の人々に親バカと罵られても、事件のことを調べ回り、”無実”を証明するために駆け回るのに…」(27頁)というように、当時の母親の気持ちが率直に語られている。警察権力やマスコミによって「息子」の犯行であるとされていることを、A少年と同じ屋根の下で生活していた母親自身がまったく信じていないことをあらためて表明しているといえる。 [97年9月18日に、両親が神戸少年鑑別所でA少年と面会した時、彼は、「帰れブタ野郎」と怒鳴った、といわれている。けれども、逮捕された十四才の少年の心理として、それは当然であるといえる。警察権力の偽計を用いた自白の強要、これに屈伏してしまった自分に対する敗北感。そして親を巻き込み迷惑をかけたくないという心理。また、逮捕されてから80日間も接見にこなかったことに対する少年の怒り。にもかかわらず、事前の予告もなしに両親が訪ねてきたことへのとまどい。これらが重なった場合の少年の叫びとして、それは理解することができる。これは、精神医学的にも心理学的にも論証できることである。 なお、両親は、逮捕された少年に会うことを「警察に何度かお願いした」(25頁)が、ある時は、「報道陣だらけでとても無理」だとか「A少年が会う意志がない」とかという理由で、面会が実現できなかったといわれている。また、警察の留置場に入れられていたA少年は、「両親が会いたくない」といっているので、両親との面会が実現できなかった、といわれている。これはA少年を自白させるために警察が仕組んだワナでなくしてなんであろうか。] こうした両親の判断をひっくり返すことをねらって、警察権力はA少年の人格上の”異常”さを、「手記」として両親に書かせることに血道をあげているともいえる。たとえ、その内容が、これまで警察権力がブルジョア・マスコミにタレ流してきた”事実”なるものとはまったく異なったものであったとしても、彼らはなりふりかまわずに両親に書かせている。『この子を生んで』で明らかにされている〔しかし、これまでの事実とはまったく辻褄が合わない〕新たな”事実”とは、およそ次のようなものである。 @ 6月28日のA少年宅の家宅捜索において、二階のA少年の部屋の天井から、「蓋もない日本酒のワンカップの空瓶の中」から「干からびた」「猫の舌」が発見されたとしていること。(父親は、これまで「見たこともない道具」や押収品目録にもないものを見せられて、あたまが真っ白になったともいっている。) これまでは、「自宅を捜索し、凶器のナイフを発見した」(逮捕直後の県警捜査一課長・山下の記者会見での発言)としていたのであるが、この「凶器のナイフ」は、わが同盟に「ナイフで人の首は切れない」とこの発表の直後に暴露され、「凶器はナイフ」という警察発表は完全に破綻したのであった。その後、淳君の首を切断した「凶器」とされているものは、「糸ノコギリ」から「金ノコギリ」へと変更された。 [6月28日のA少年の自宅の家宅捜索にたちあった父親は、その時の様子を次のように書いている。 「『お父さん、これ』と、次にAの机から引っ張りだしたノートをパラパラと見せられました。報道されたいわゆる『犯行ノート』というものでしょうが、書いてある文字も目に入らず、ただナチスの(※1)のマークを捩ったような、(※2)というマークが描いてあったことしか覚えていません。」(56〜57頁)
だが、A少年は、「平成9年7月10日付」の「供述調書」では、「『酒鬼薔薇聖斗』についても、(僕は)マークを作っていました。そのマークは、(※3)でした」といっている。要するに、A少年の「供述調書」と称するものでは、「酒鬼薔薇聖斗」のマークは「(※3参照)」と語っているのだが、「犯行声明」として送られてきた「酒鬼薔薇聖斗」のマークは「(※2)」になっている。 ところで、A少年は、「僕が小学生五、六年生の頃に、悪いほうの僕自身につけた名前」が「酒鬼薔薇聖斗」であり、そのマークが「(※3)」であると「供述」しているのであるがこの「(※3)」のマークは、A少年の自宅から7〜8キロメートル離れたところにある「天道総天壇」(神戸市中央区山本通り 4-27−22)に掲げられている「本尊」の「(※4)」(ラウム)を模倣したものであると思われる。] A 淳君が行方不明となった5月24日の行動について。 「昼頃、親戚が車を洗いにやって来たとき、Aが庭の南の土手の方へ歩いて出掛ける姿を見た」(112頁)とされていること。−−「平成9年7月5日付け」のA少年の「供述調書」では、「昼過ぎ頃、僕の自転車であるママチャリに乗って自宅を出ました」となっている。A少年が「歩いて」出掛けたならば、この日「自転車」に乗って「町内をブラブラし」、「自転車を押しながら」淳君と一緒にタンク山に向かい、淳君を殺害したあと「ママチャリに乗り」コープリビングセンターにいった、というような警察に脅迫されて供述した内容がすべて崩れることになる。 B 淳君が殺害されたとされる5月24日午後は、雨が降っていたのであるが、タンク山頂上付近のアンテナ施設の入り口前で、淳君を殺害するために「1時間」にわたって格闘したとされているが、「Aの洋服の汚れなどには、特に気がつきませんでした」(225頁)とされていること。−−このことは、A少年の「供述」に客観性がないことを証明している。 C 5月25日に父親がA少年と「自転車を交換」した時間が、「1時から3時の間」とされていたのが、「11時半頃」にすりかえられたこと。−−「1時から3時の間」としたならば、警察犬をも動員して大捜索をしていた時間帯になるので、午前中の時間帯にしたということである。 D 入角ノ池から淳君の首を自宅にもち帰り、風呂場で「洗った」とされている5月26日「午後2時半頃」、「Aの様子がおかしかったという報道があったようですが、妻の目から見てそんな印象はなかったそうです」(117頁)といわれていること。−−この日の午後2時半にA少年を訪問したT教諭も、A少年と会っているが、変わった様子はなかった、と証言している。 E 5月27日の「6時半頃妻が私を名谷駅へ送った後家に戻ると、いつも午前10時半頃起きてくるAが珍しく早起きし、二階の部屋から台所に下りてきていたそうです。」(117頁)とされていること。−−「平成9年7月3日付け」母親の「員面調書」だと、「午前7時頃二男〇〇と三男〇〇〇を起こすと共にAにあっても児童相談所での面接時間が午前10時と決まっていたこともあり起床させたのです。」とされていること。はたして、A少年は、この日の午前7時に「起床させた」とされていたものが、6時半頃には”起きていた”ことにされていること。このことは「眠たくなかったので、朝まで起きていました」という「供述」にそって、母親の”記憶”をスリ替えたということである。なお、午前6時半ごろ、A少年が自宅にいたと、ことさら強調する意味は、午前5時20分、6時30分、6時40分と、淳君の頭部がおかれていた位置が移動していたという決定的事実をかき消すためであろう。 F 5月27日の昼頃、ハーバーランドの児童相談所の事務所内のテレビの放送を母親と一緒に見ていた「Aが怖いなあ、早よ帰ろ帰ろと言って私を促〔した〕」(平成9年7月3日付け)という母親の「員面調書」での供述は、A少年ではなく母親が「早よ帰ろ。怖いから」と発言したことにすり替えられていること。(118頁) これらの”新たな事実”の提出と両親の”記憶”のすり替えは、マスコミをつうじて流布された警察情報の諸矛盾について、わが同盟がひとつひとつ具体的に暴きだしたことにたいする、警察権力と文藝春秋社と弁護団の、両親に語らせた醜悪な”弁明”でしかない。神戸事件の真相と深層を明らかにするわが革命的左翼の闘いが社会的に広がることを恐れている警察権力。彼らはそのために、新たな物語をつくり姑息なのりきりをはかることに必死になっているのだ。 B、警察権力による事件捏造の手口が露出 @ 抹殺されたタライ 『この子を生んで』において、A少年の両親は、警察権力による自宅への家宅捜索時の立ち会い、事情聴取などについてリアルに綴っている。この最大の特徴は、わが同盟がすでに暴露してきたように(現代社会問題研究会編『神戸事件の謎ー酒鬼薔薇聖斗とは?』、解放社刊)、A少年が、5月26日に淳君の頭部を自宅に持ち帰り「風呂場で首を洗った」と「供述」したとされているが、風呂場およびタライ、淳君の髪の毛をとかしたとされている「クシかブラシ」にルミノール反応があったとは報じられていない。 この点について、父親は、警察とのやりとりとして次のように記している。
「所有物権放棄書」のサインを実際にサインした7月18日ではなく、7月14日付けで父親にサインさせたのは、7月15日に2月の女児殴打事件と3月の通り魔事件でA少年を再逮捕するまえに、淳君殺害事件の”処理”を終了したことにするというねらいがあったからであろう。 不当かつ違法に逮捕されたA少年は警察官の誘導尋問にかかって「自白」させられたのであるが、この「自白」を家裁の審判の証拠とするために、すなわち、「自白」内容と客観的事実の一致を審判の中で証明するために、警察は〈タライ〉を押収した。だが、実はルミノール反応が検出されないことからして、この<タライ>がA少年の「自白の信用性」を根底から突き崩す逆の”証拠”になってしまいかねない。このことを恐れたにちがいないのだ。警察権力は神戸小学生惨殺事件の冤罪的性格=権力犯罪という直接性が満天下にさらされることを危惧し、自己保身をはかったにちがいないのだ。 このようにA少年の両親が法的な知識がないことを逆手にとって、捜査段階においていったん押収した証拠物を「放棄」させるというようなことが、はたして許されるのであろうか。 A、逮捕時間のデタラメさ 97年6月28日の午後9時34分からおこなわれた記者会見で、兵庫県警捜査一課長・山下征士は、次のように発言した。
それだけではない。県警発表では、「本日朝から任意取り調べをした」とされているが、父親の「手記」を読む限り、A少年はもとより、父親も母親も、「息子が連行された」(50頁)ことが任意であるとは知らされていない。 そして県警捜査一課長・山下は、6月28日の会見で、「(A少年の)自宅を捜索し、ナイフを発見」と発表しているのであるが、自宅の「家宅捜索が終わったのは、深夜12時を過ぎてからでした」(58頁)ということになっている。このことは、「凶器のナイフ」を押収するまえに、(そもそも凶器がナイフであると県警はいつの時点で確定したのか、ということもハッキリはしていない。また、この凶器は、後に、糸ノコから金ノコへと変わることになる)、「凶器のナイフ」を自宅で発見したと発表したことになる。 6月28日早朝にA少年を須磨署へ「連行」、母親は垂水署へ、そして、あらかじめ「弁当」を持参した警察官が父親を監視。このような6月28日早朝から県警がA少年とその家族にたいしてとった”体制”は、「犯行の自供を得た」(山下の会見での発言)から逮捕したのではなく、あらかじめ「犯人」ときめつけて逮捕する体制をとっていたことを物語っている。すべては警察権力がつくりあげたシナリオどおり、事がすすめられていることが歴然としているではないか。 B、「僕を騙したあの警官…」
明らかに、捜査段階でのA少年に対する取り調べは、A少年を「犯人」にしたてあげるに足りる物的証拠がまったくないなかで、もっぱら少年の「自白調書」を強引にとることだけを自己目的的に追求するものだったのだ。このことを右の一事はあからさまに表白するものだ。警察権力が必死の形相でA少年に自白をせまったのは、もちろん、警察権力が「被告事件についての犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言い渡し」(刑訴法336条)がされるという現実的可能性を恐れたからにほかならない。 [神戸事件の捜査段階におけるA少年にたいする「偽計を用いた自白」という警察権力の違法行為は、「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」とした憲法31条に定められている基本的人権を著しく侵害するものである。したがって、捜査段階での警察の違法行為によって収集された証拠については、ブルジョア法上は、たとえそれが「実体的真実」を追求するうえで優れた証拠価値をもつものであったとしても、事件の事実認定においては、証拠としての資格つまり証拠能力がないだけではなく排除されるべきでものである、ということは当たりまえのことなのである。警察権力が、”法的手段”をもって反撃されることを恐れていたのはいうまでもない。だが、弁護団は、このような弁護活動をもまったく展開しなかったのだ。] C、「到達目標」の刷り込み 「連日、繰り返し繰り返し同じ質問の事情聴取ばかりで、そのうち頭がおかしくなるのではないかと思いました」(61頁)と父親が「手記」に記していることからするならば、警察権力は、A少年に対してもそうであったように、両親に対しても警察にとって都合のよい答えが得られるまで、同じ質問を繰り返していたことが推測できる。このことは、明らかに、警察権力の「到達目標」への接近に向けた誘導尋問であり、また、その「到達目標」を父親や母親の頭に刷り込むための作業がおこなわれたということである。 [なお、A少年が逮捕された6月28日から、7月31日まで、ほぼ連日、父親は「日記」と称するものを書いていることになっている。だが、なぜか、7月3日、10日、29日の3日だけが欠落している。とりわけ7月3日は、父親が「員面調書」をとられている日であるにもかかわらず、あえて、「日記」から排除されているということは、この日の調書が公表されると都合が悪いということなのか。] C、弁護団の弁護活動の放棄も満天下に露呈 6月28日に理不尽にも容疑者として逮捕され、そして7月25日には神戸家庭裁判所送りとなり、10月17日には「医療少年院送致」の「処分決定」を下された「少年A」。彼は取り調べの警察官や検事に「自白」を強いられた時、「神戸弁護士会須磨友が丘・竜が台事件対策協議会(代表羽柴修弁護士)」から派遣された弁護士に「(警察に)だまされた。そういうのが非常につらかった。」と必死に訴えていたにもかかわらず、この訴えを非情にも潰されたのであった。また彼は、「非行事実」の認定にかんする物的証拠がないままに、少年の「精神鑑定」なるものを鵜呑にした「家裁決定」(「少年を医療少年院に送致する」)を「付添人の意見に沿うもの」と態度表明した付添人団(弁護団)によって、一切の弁明と抗告の機会を与えられることなく、関東医療少年院に収容されたのであった。 不当に逮捕され自白を強要されたA少年を弁護する活動をいっさい放擲した弁護団。かれらは、神戸家裁の井垣裁判官が、少年の「自供」が偽計にもとづくものであるがゆえに「員面調書」を「証拠から排除する」という「決定」(「神戸家裁決定要旨」の第四項目)を下したにもかかわらず、同じ問題をはらんでいる検面調書の排除を要求しなかったばかりか、「医療少年院送致」を「われわれの要求」と称して認めたのだ。われわれは、このように無能ぶりを満天下に露わにした代々木系弁護団の対応の犯罪性を、代々木共産党の路線(議会主義・集票主義・合法主義・三権分立の絶対視・警察への屈服など)との関係で明らかにするとともに、その認識論的根拠をも突きだしてきた(『神戸事件の謎』第二部所収の諸論文を参照せよ)。まさに、弁護団の”弁護活動”はまったく許しがたいものであって、この謀略的権力犯罪は、代々木系弁護団の裏切り的対応によっても可能となったといってよいのである。 だが、A少年の両親の「悔恨の手記」は、彼ら弁護団の弁護活動の放棄を今日あらためて生々しく明らかにしているのだ。 その第一は、6月28日にA少年が逮捕されてから、弁護団は毎日接見しているにもかかわらず、7月5日まで両親に接見内容をまったく報告していなかったことである。 7月5日の父親の「手記」では、こう記されている。
その第二は、A少年が不当・違法に逮捕され警察に留置されていた時だけでなく、神戸家裁に送致され(7月25日)、身柄を神戸少年鑑別所に移送されてからも、弁護団が、A少年との接見内容を両親に即座に報告していないことである。7月17日付けの父親の「手記」は、弁護団の倫理的責任の欠落をしめしているといえる。
その第三は、A少年が神戸家裁に送致(7月25日)される前から、つまり、神戸地検が淳君殺害事件の捜査を終了していない7月12日の時点で、羽柴弁護士が被害者にたいする謝罪をすすめていたことである。7月12日、「事務所で弁護士の先生に会う。この時、被害者の方々への謝罪をどうするか、話し合いました」(69頁)という父親の「手記」は、弁護団の許しがたい屈服的態度を明らかにしているといえる。しかも、この段階での両親の考え方は次のようなものであった、と告白している。
数々の冤罪事件を生んできた「代用監獄」としての留置場、警察権力によってすべての情報が閉ざされ、警察権力の取り調べ室という密室において、人格形成途上のひとりのいたいけな少年が、偽計と脅迫によって、おそるべき事件の犯行者にしたてあげられようとしていたまさにその時に、少年を弁護すべき弁護団は、国家権力がブルジョア・マスコミをつうじてタレ流す情報に足をすくわれ、”被害者への謝罪”をもとめていたとは! 神戸弁護士会須磨友が丘・竜が台事件対策協議会の代表を務めていた羽柴修弁護士が、『週刊文春』編集長・松井清人と、事件の担当記者・森下香枝とつるんで、A少年の両親に、〈ああ、やはりウチの息子があの事件の犯人やったんや〉(42頁)というひと言を語らせるために仕組んだ『この子を生んで』という本の発刊は、皮肉にも、少年Aが神戸事件の犯人としての「酒鬼薔薇聖斗」であることを明らかにするどころか、代々木系弁護団の弁護活動の放擲と無能さをさらけだすものとなった。 今年3月11日に神戸家裁で言い渡された、いわゆる神戸事件の民事訴訟に対する判決と、時を同じくして仕掛けられた『この子を生んで』の発刊を通じての「A少年犯人説」の新たなキャンペーン。われわれは、これを打ち砕くためのイデオロギー闘争を断固として推進しなければならない。 〈付記〉 A少年の視力が、事件当時、片方が0・1で、片方が0・2である、という事実が新たに判明した。A少年の視力は、小学校四年生頃から悪くなり、事件当時、「眼鏡は持っていた」が、日常生活では使っていなかった、といわれている。 事件当時、A少年の視力が、0・1と0・2で、眼鏡をかけていなかった、というのであれば、A少年の「供述」内容は、次の諸点で決定的な矛盾がでてくる。 @、5月24日の昼過ぎ、「T小学校北側道路の北側の歩道上を、僕とは反対に、西から東に一人で歩いてくる淳君を見付けたのです」と「供述」していることになっているが、A少年が淳君を「見付けた」ときの両者の距離は、A少年において淳君を認識することができるかなり近い距離ということになる。そうだとすると、淳君を「見付け」、「咄嗟に僕は『淳君なら…殺せる』と思い」、「淳君の方に近付いて」、「淳君を殺す場所を考え」、「素手で淳君の首を絞めると、淳君の首に僕の指紋が付くと、僕の犯行だと分かると思ったので、手袋を素早くはめました」という一定程度の距離感を感じさせる「供述」との矛盾がでてくる。 A、淳君を殺害したあと、雨が降っているなかで「ママチャリに乗り」、「コープリビングセンター」にいったと「供述」しているが、視力が、0・1と0・2のA少年が、眼鏡もかけずに、雨天に自転車にのることができるのか。 B、A少年は、「コープリビングセンター」で「糸ノコギリと南京錠を万引き」したと「供述」しているが、視力の悪い人間が、万引きするために、万引きが摘発されないように周辺を見ることができるのか。コープリビングセンターには、万引きなどを摘発する監視員がいるのは周知の事実。 C、5月25日に、「補助カバンの中に淳君の首を入れ」、「ロープを伝って入角ノ池へと降りました」と「供述」しているが、両手でロープを握って、10メートル下の足場の悪い急斜面を降りられるのか。ほぼ無理である。 D、同じく25日に入角ノ池に向かう過程で、「T小学校の方向から歩いて来ている女の人を見」たが、この「女の人の目と僕の目が合った訳でもなく」と「供述」しているが、視力の悪いA少年が「目と目が合う」ということはかなりの至近距離で会ったということになる。そうだとすれば、「淳君を探している」と思われる「女の人」が、A少年の「供述」を裏付ける証人としてあらわれないのはいかにもおかしい。 矛盾点は、まだあるが、さし当たり、ここでとどめておく。 |
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